掛川に根づいた報徳運動の歴史

 報徳運動は、江戸時代末期から、各地の困窮の村々を救い、農民生活の安定化に貢献した実学的な手法として全国に浸透しました。特に静岡県には、明治30年代、420社におよぶ「報徳社」が結成され、とりわけ、その活動が盛んだったのは、掛川を中心とした遠州地方でした。
 二宮尊徳から直接に教えを受けた岡田佐平治、良一郎親子が中心となって繰り広げられた掛川藩内の農村復興の努力は、やがて明治8(1875)年の遠江国報徳社創設に結実しました。また、岡田良一郎は資産金貸付所を明治7(1874)年に創設し、それが掛川信用組合を経て、日本で最古の掛川信用金庫となりました。
また、産業に関する協同組合的思想は、産業組合となり農業協同組合の原点となっています。一方、明治10(1877)年岡田良一郎が開いた私塾、冀北学舎は、明治17年まで続き、県内外の152人の逸材を輩出しました。岡田良一郎の息子である岡田良平、一木喜徳郎も、冀北学舎で学び、後に文部大臣や宮内大臣を務めました。
 大日本報徳社の事業は、岡田家四代で終戦を迎え挫折しかかりましたが、GHQのインポーデン新聞課長の好評価などでよみがえり、戦後の復興を担いました。そして、第五代社長河井禰八(元参議院議長)、第六代社長戸塚九一郎(元労働、建設大臣)と続き、第七代社長神谷慶治(元東京大学農学部長)を経て、第八代社長榛村純一(元掛川市長)に引き継がれています。現在の榛村社長(平成13年~)の時代に、大講堂等の六つの近代和風木造建築物群の保存修復工事が完成し、公益社団法人(平成24年7月)に移行しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          岡田佐平治

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

           岡田良一郎